香川県三豊市詫間町出身の洋画家・小林萬吾(1868−1947)。日本洋画の黎明期に油絵を学んだ彼は、黒田清輝のもと白馬会や官展で作品を発表し、東京美術学校で教鞭をとりました。ヨーロッパ留学を経て、自らの様式を模索しながら後進を育成した彼の歩みは、まさに、明治から大正、そして昭和戦後にいたる日本洋画の歴史と重なります。その50年に及ぶ画業を、萬吾が巡り会い、ともに日本洋画の歴史に名を刻んできた個性豊かな洋画家たちの名作の数々とともにご覧いただきます。
1880年代、印象派やジャポニスムを横目に本場のアカデミズムを学び、1893(明治26)年、明るい光をまとった絵画技法を持ち帰った黒田清輝。その画風は日本の画家たちに衝撃を与えました。若き小林萬吾の目に、当時の洋画界はどのように映っていたのでしょうか。萬吾が上京して絵画修業を開始し、黒田清輝に出会うまでを紹介します。
1896(明治29)年、黒田清輝や久米桂一郎のもとに俊英が集い「白馬会」が結成されました。同じ年、東京美術学校には西洋画科が新設されます。アカデミックな土壌と、新風を吹き込む発表の場が、日本洋画界では同時にスタートを切ったのです。萬吾とともに活動した白馬会、そして、ともに学んだ美術学校出身の画家たちによる名作から、瑞々しい明治の姿をご覧いただきます。
洋行は画学生の憧れでした。1900年の万博を契機に、また、大きな戦乱の終結のたびに、留学生の数は倍増しました。小林萬吾が派遣された1911(明治44)年前後には安井曾太郎や藤田嗣治ほか多数が欧州に集結。萬吾も他の留学生と交流し、各国を旅し、制作しました。萬吾の滞欧期間(1911−14)を中心に、彼が影響を受けたり、交流をもった画家たちが描いた1920年代までの作品をご覧ください。
1907(明治40)年、フランスのサロンに倣った第1回文展が行われます。萬吾が留学した1911年に白馬会は解散し、後続の光風会や官展に発表の場は移りました。ヨーロッパからの帰国後、萬吾は自分ならではの表現を追求します。それは同時代の画家たちに共通する問題であり、それぞれの模索が西洋由来の油絵を日本の洋画として成熟させていきます。
東京美術学校の教授陣は、それぞれが画塾を開くなど、手広く後進を指導しました。萬吾は戦後まもない1947年に亡くなりますが、生前に育てた画家たちが、戦中戦後に大いに活躍します。萬吾に教えを受けた画家には麻生三郎や牛島憲之、駒井哲郎、野見山暁治ら個性的な面々が名を連ねています。画家、そして教師として生きた小林萬吾の薫陶を受けた、次世代の作家たちを紹介します。
個人 | 団体 | |
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一般 | 1,000円 | 800円 |
シニア | 700円 | 500円 |
大学生 | 500円 | 300円 |
高校生以下 | 無料 | 無料 |
前売り (Pコード685-255/Lコード86697) | 600円 |